当社の起こり
当社の起こり
西暦1484年、文明16年戦国時代の京都では、あちこちで百姓一揆が起こりはじめていました。
小藩主の「斧田庄之助」は武士の身分を捨て、刀を鍬に持ち替えて百姓となりました。
庄屋を引き受けた庄之助ですが、飢餓が深刻化したため苦慮の末、故郷を捨て新天地を求める事を決断します。船に乗り豊後水道の水の子島に着いた50世帯は、佐伯と四国の二手に分かれました。
佐伯25世帯の庄屋には三又家初代となる「庄衛門」が任命され、その後も庄屋を交代しながら明治維新までこの地に平穏な生活を営んできたのです。
その後、三又家21代目になるはずだった「三又庄八」は、明治大学法学部法律学科を卒業後、その道に進まず小説家になります。そして自費出版のために、財産である土地田畑のほとんどを手放し、三又家はやむなく百姓を締める事になったのです。
庄八は家を継がず、姉である「タツ」が大谷福太郎を養子に迎え、家計のために鹿児島県種子島に渡り、樟脳製造業で働きました。
22代目となる「三又長作」は大正15年、出稼ぎのために(有)西松組で初めてトンネル工事に従事するようになりました。これよりトンネル工事業が三又家の家業となり、現在に至る事となります。
三又 長作 (三又家 第22代 トンネル家業初代)
大正15年 | 夫婦で朝鮮に渡りトンネル工事に従事 |
昭和 3年7月8日 | 朝鮮にて長男「福茂」誕生 |
昭和 5年 | (有)西松組の配下名義人となる。 以後終戦まで朝鮮にてトンネル工事に従事 |
昭和23年 | (有)西松組は、西松建設株式会社に社名変更 |
昭和24年夏 | 塵肺のため死去(享年49歳) |
長作(中央)朝鮮の工事現場
長作(写真左)
三又 福茂 三又家 第23代(トンネル家業第2代)
昭和21年 3月 | 津久見工業学校機械科を卒業、エンジニアを目指すが、敗戦国日本には希望の職場も無く、父 長作施工のトンネル工事に従事 |
昭和28年10月 1日 | 西松建設(株)隧道工長となる (導水路トンネル、鉄道トンネル、ダム付帯トンネル等) |
昭和45年11月16日 | (有)三光建設設立、代表取締役に就任 (新幹線トンネル、道路トンネル、元請工事等) |
昭和56年 5月 | 庄司建設工業(有)の相談役となる |
平成 4年12月25日 | 塵肺のため死去、享年63歳 |
職歴
昭和21年8月~昭和56年6月 職歴 (2013-02-23 ・ 593KB) |
三又 庄司 三又家 第24代(トンネル家業第3代)
昭和52年 3月 | 千葉工業大学土木工学科卒業 |
昭和52年 4月 | (有)三光建設入社 高千穂線上野第一トンネル勤務 |
昭和53年 8月 | 日精(株)入社(55年9月) |
昭和55年10月 | (有)三幸建設(前 三光建設)入社 国道326号三国トンネル工事勤務 |
昭和56年 5月 | 庄司建設工業有限会社設立 代表取締役に就任 |